作者注: フィクションです。念の為。
和歌山県串本町古座へのショップ主催ファン・ダイビング・ツアーの最終日。今日 2 ダイブ目のダイビング、つまりこのファン・ダイビング・ツアーでの最後のダイビングになる。
ダイビング・ポイントは上瀬・内の根。
海は波もなく穏やか。今日は普段のような流れもほとんどないということは、現地ダイビングサービスのオーナーから聞いているし、1 本目の上瀬・沖の根も流れていなかった。なのでみんなバディごとに、気軽に次々とバックロールエントリーで海に入っていく。
このショップのダイビング・ツアーでは、オーナーの考えもあり、たとえオープン・ウォーター・ダイバーであっても、ファン・ダイバーはバディ・ダイビングをすることに以前からなっている。たとえその時フォーメーション・システムを採っていたとしても、優先されるのはバディ・システムだ。
なのでダイビングは、ほぼ全てファン・ダイバー自身が、バディ単位で管理することになる。浮上も全員一緒にではなく、バディ単位でとなる。そのため、このショップのファンダイブ・ツアーでは、全員のエグジット後にボートが港に帰る前に、必ず全員が揃っているか、船長による最終点呼が行われる。
バディとの軽い打ち合わせと、バディチェックを終えて、ぼくもバディとバックロールでエントリーする。
視界を遮っていた無数の泡が消えてバディの姿が目に入る。お互いに目をあわせてOKサインを交換する。ぼくたちも他のファン・ダイバーのように、アンカー・ロープを伝ってアンカーまで潜降していく。
ぼくはバディに耳がきちんと抜けているかどうかハンド・サインで確認する。OKのサインが返ってくる。そのまま潜降して、他のファン・ダイバーが待っているアンカーにたどり着く。
おもしろいダイビング・ポイントに入ったはずなんだけど、実はダイビング・ポイントの記憶がさっぱりない。この日の 2 本のダイビングで、覚えているのは、実はこの日のぼくのバディだった彼女のことだけだった。
ぼくはどちらかというと、ダイビング中にバディがなにか問題をかかえてないかすごく気になる質だし、水中でなにかいいもの、たとえば生物とかを見つけるとバディに知らせるのが日常だった。ぼくはそういうタイプのダイバーなので、割とマメにバディに問題がないかどうか確認をしたり、バディの残圧を確認したり、めずらしい生物を見つけたらバディに伝えたりする。これはバディが誰かということに関係がない。そもそも、バディ・システムとはそういうものだ、とオープン・ウォーター I の講習で学んでもいた。ただそれを愚直に続けているだけの話になる。
当時本業だった IT 関係の仕事で、半年ほど東京に長期出張をしていたことがあった。その期間中に何度か大瀬崎と雲見に入っている。大瀬崎や雲見では大抵フォーメーション・システムが採られていたのだけど、なぜかチームをロストして行方不明になるファン・ダイバーが少なくなかった。
そんな行方不明になる人たちは、そのほとんどがダイビング中に気分が悪くなって、ガイドにもバディにすらも、なにも知らせずに 1 人で浮上して、1 人でエグジットして陸で休んでいたりしていた。大抵ぐったりしているので叱る気持ちにはなれなかったけれど。
ただ他のファン・ダイバーを全員陸に上げて、深刻な顔で踵を返して、捜索のために 1 人海に戻っていくガイドさんを何度見ただろうか。そんなガイドさんの深刻な表情と、引率していたファン・ダイバーが無事だとわかったときの、力が抜けたようなホッとした表情が今でも忘れられない。
地元関西でそんな経験がまったくなかったので、大瀬崎や雲見では、なぜ?と思うのだけれど、朝方まで飲んでて寝てないとか、仕事がハードであまり寝てないとか、それで体調が最悪の状態でダイビングをする、そういった無茶をするファン・ダイバーを、大瀬崎や雲見でけっこう目撃することになった。
それだけでなくバディ・システムが一切機能していないということも目撃する。バディが消えていることに、そのバディがぜんぜん気づいていないんだもの。なんでぼくが気づいて、バディのあんたが気づいてないの?バディが消えてるのに、なんで平然とダイビングを続けてるの?ってことが、やたらと多かった。
東京滞在中のダイビング体験では、毎回必ず誰かがいなくなるという体験ばかりしていた。なので、誰かに頼まれたわけでもないのだけれど、東京滞在期間中は、全てのファン・ダイビングで、チームの後ろについて、誰かがいなくなるのではないかと、ずっと、ファンダイブ参加者全員をずっとチェックし続けていた。
安くはないお金を払ってのファン・ダイビングなのに何やってんだろ?と思わなくはなかったけれど、毎回人がいなくなるし、いなくなった人のバディは毎回気が付かずに潜ってるし、のほほんと潜っているのは、ぼくには無理だった。
そういったことを東京滞在時に何度も経験しているので、バディの動向や状態を気にするぼくの癖に、拍車がかかってしまった。
東京への長期出張を終えて大阪に戻ってきても、もうフォーメーション・システムを採っていようが、チーム全体のファン・ダイバーに問題がないかが、気になるようになってしまっていた。ファン・ダイブで海の中を見てるのか、チームのファン・ダイバーを見ているのかわからない状態だった。1 ファン・ダイバーに過ぎないのに。
ぼくは 1 本目の上瀬・沖の根のときも、バディの彼女に問題がないか、ダイビング中ときおり確認したり、珍しい生物を見つけたら彼女に教えながら、潜っていた。特にダイビング中に彼女に問題がおこることもなくて、普通に上瀬のダイビングポイントを楽しんでいるようだった。
このときぼく自身は、上瀬でのダイビング自体を楽しんでいたのか、と言われると言葉を濁さざるを得ない。バディばかり気にしていたから。
東京長期出張のときの経験で、そう体に染み付いてしまったのだろう。そう思っていた。そう思っていた時もあった。エントリーしてからしばらくの間は。
でも、-5m での安全停止中に気がついてしまった。思ってしまった。「なんか上がりたくないな。この娘ともっと一緒に潜っていたいな」って。
ちょっとまて。今の気持ちは何?彼女とは昨日知り合ったばかりだよ?そもそもおれ妻子持ちだよ?娘が生まれてまだ 1 年ちょっとだよ?ちょっと落ち着け、落ち着け自分、ってそのときの気持ちを打ち消そうとしたけど……だめだった。
そんな気持ちをかかえたまま 2 本目までの水面休息時間中に、2 人でいろいろ話をしてた。そのときに彼女が看護師の仕事をしてることも知った。彼女はぼくに冗談を言いながら肘打ちをするような、そんな打ち解けた態度をするようにもなっていた。でも内心、まずいまずい、このままじゃまずい、自分の中に沸き起こってる気持ちがなによりまずい、って平静を装いながら、彼女といろんなことを話してた。
まずいことに、ツアーには結婚指輪をせずに参加していた。普段着けている結婚指輪をなぜしていなかったのかというと、失くすからだ。さすがに結婚指輪は失くすわけにいかない。なのでダイビングのときは、必ず指輪は家に置いてきている。このファン・ダイブ・ツアーでは、結婚指輪は実は自制を促すツールだったのだとわかってしまった。その肝心の自制を促すものは、そのとき指についていなかった。
それで 2 本目の上瀬・内の根。やっぱりバディばかり気になってしまっていて、無意識にバディを目で追っている自分に気づく。だめだ、ちゃんとダイビングを楽しまなくちゃ。女の子ばかりずっと見てる場合じゃない。まずい、まずい。目があった。とっさにOK?とハンドサインを送る。OKとハンドサインが返ってくる。可愛い。まずい、まずい、まずい。自分はやっぱりこの娘を好きになりかけてる。まずい、まずい、まずい。
そんな 35 分だった。エアの消費もやたらと早い。
指輪さえ持ってきていれば、放って置いても彼女の方からは、ある距離からは近づいてはこない、そうは思うものの、そのときに無いものはない。でもそのとき思った。ぼくが既婚者であることがわかれば、少なくとも彼女の方からぼくに近づき過ぎることを避けてくれるはず。
そんな気持ちに彼女がなってるのかなんて、もちろんぼくにはわからない。でも彼女がぼくに好意を持っていない、そう信じるには、あまりに彼女と仲良くなりすぎていた。なのでどちらかというと、ぼく自身が自制するために、早めに自分が既婚者であることを話さなければならない。そのきっかけを早く見つけなければならない。
それを話すきっかけはわりと早くにやってきた。
エグジットしてサービスに戻って機材を洗いながら、ぼくの名前を呼んで彼女が訊いてくる。
「ダイバーの彼女とかつくらないの?」
彼女の意図は当然わからないけれど、この機会を逃すわけにはいかなかった。
「うーん、それは、ないかなぁ。だって、ぼく妻子いるし」って平静を装って自分の機材を洗いながら答えた。
突然、ホースから吹き出る水が、ぼくの顔面にかかる。
彼女の方を見る。彼女は実に楽しそうに笑いながら、ぼくに水をかけ続ける。
そのとき彼女が何を思っていたのかはわからない。彼女をくどくようなことは何一つ言っていないけれど「なに思い上がってるの」と思っていたのかもしれないし「勘違いするな」かもしれないし「この妻子持ちの不良オヤジが」かもしれないし、単に「こいつ」とかかもしれない。単に少し仲良くなったバディに水をかけるのを楽しんでいただけかもしれない。
ともかくこれ以上仲がよくはならないための予防線は張れた。なにより自分の気持ちに冷水をぶっかける効果はあった。
そのときの楽しそうに水をかける彼女の笑顔を今でも思い出せるのだけれど、それ以後のツアーで彼女と会うことはなかった。たぶん仕事の都合などもあったのだろうけど、自分の気持ちと折り合いをつけるには都合がよかった。
インストラクターちゃんシリーズ内のエピソードは、あくまで架空のエピソードです。登場人物も全て架空の人物です。実在する潜水指導団体、ダイビングショップ、ダイビングサービス、ショップオーナー、インストラクター、ダイブマスター、アシスタントインストラクター、ダイバー、バディとは一切関係がありません。ご注意ください。